2009年6月26日金曜日

御楯橋と海軍経理学校

品川駅港南口から正面に進んで高浜運河を渡る位置に御楯橋(みたてばし)がかかっています。


御楯橋の位置

長さ71メートル、初代の橋が架けられたのは1942年(昭和17年)で、現在の橋は1966年(昭和41年)に架け替えられた2代目です。



「御楯橋」の名は、『万葉集』今奉部與曾布(いままつりべのよそふ)の「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御盾と出で立つ吾は」という歌に由来するとされています。万葉集とはまた風雅な話ですが、この歌は1942年に『愛国百人一首』に選定されたのをきっかけに広く知られるようになりました。

あるいは命名者は、1862年に高杉晋作が組織した「御楯組」を意識したのかもしれません。高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)ら御楯組の12人は、1863年1月、品川御殿山で建設中だった英国公使館を焼討ちするという事件を起こしています。

初代御楯橋が架けられた当時、御楯橋を渡った先では海軍経理学校の品川分校が建設中でした。海軍は巨大官僚組織でしたから、指揮官や水兵の他に、事務的な仕事をこなす大量の頭脳労働者が必要でした。そうした人材を養成したのが海軍経理学校です。海軍経理学校の受験者は一般の大学を卒業した社会人で、2年間の短期現役勤務の後、社会復帰するのが通例でした。

海軍経理学校のOBとしては中曽根康弘元首相が有名です。中曽根氏は群馬の名士の家の出で、東京帝大の法科を卒業して内務省に入省した秀才でした。しかし中曽根氏のような青年にも平等に兵役は課されます。そこでこうした青年の多くは、二等兵としてこき使われるよりも、海軍経理学校に入学して将校待遇を得る道を目指したのです。

それは決して楽な道ではありませんでした。太平洋戦争では中曽根氏も最前線で戦っていますし、海軍経理学校の出身者からも多数の戦死者を出しています。

1944年、海軍経理学校築地本校が手狭となったため品川に本校が移転してきました。終戦とともに敷地は進駐軍に接収され、後に日本政府に返還されて東京水産大学の移転先となりました。現在の東京海洋大学の敷地内には海軍経理学校を偲ばせる遺構は残っていません。ただ「御楯橋」の名のみに名残をとどめています。

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